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菅島の伝説

ともかづき

 海女が海に潜っていると、ともかづきというものに出会ったという。自分のほかに誰もかづいていないはずなのに、一間ほど隔てた水中に一人の海女の姿が見えて、同じように鮑とりをしている。不思議に思って、息継ぎに水面へ上がってあたりを眺めても船や磯桶のほかには何も浮かんではおらぬ。また潜るとやはりいる。もしその海女から鮑などをとって貰ったりすると命を奪われてしまう。海中では昔からさまざまな奇怪が生ずる。海女の磯手ぬぐいは海潜きをするとき、後鉢巻に締める木綿糸、その手ぬぐいの眉間に当たるところに紺の木綿糸、あるいは他のもので縦に一筋の縫い付けをする。またその両側にドーマン、セーマンを印す。これは海中の魔除け、魔おどし等と称し、磯手ぬぐいに限らず、磯シャツ、磯中根の隅にもつけ、漁夫もまた褌の先端につけたりした。菅島では、縦筋だけをつけたり、ドーマンだけ眉間に印し、これを「セイメイカク」と呼んだ。磯手ぬぐいにセーマンを印す際は縦に二つ印し、二つ折りにして内外に重ね合わせて締める。また手ぬぐいの両端は必ず、紺糸でいしつぎをする。


御祭

 旧六月十六から二十三まで、二十一日まで「上がり日」とと称し、この日は七本組のサメが、磯辺伊雑宮へ参宮にいくから、それに遭わぬようにと、二十三日までの三日間、海女は海へ行かない。また御祭の二十日までは、海潜きはしても島先だけで、沖の方は出かけない事はしている。菅島には七浜の島々に「オハケさん」と称する祠のない神が祀られてあって、御祭には、このサメが浜を廻って、それらの島を通るというので三日間を慎むのである。昔は七本組のサメが必ず磯部へあがったものであるが、いつの時か坂手島の者がその中の一本を突いたので、今では六本組となってしまったと言っている。御祭の休日には海女は磯部へ参詣する。


菅島騒動

 昔、この島に屋号を「兵次郎屋」(ひょうじろうや)という長者があった。菅島きっての長者というばかりばかりでなく、志州一国にかけての長者番付のうちでも、その頭位にあったほどであった。その祖先は源平合戦の頃、およそ700年前、伊豆の豪族で菅左近というものであった、平家の族であったため伊豆から逃れてこの島に渡って住み着いた。以来この島を菅島と称するにあたったものと言われている。
 菅左がこの島に来た頃には、長者の部にはいるほどの者ではなかった。その住家のそばに小庵の地蔵堂を建設して住職を兼ねていた。即ち、武士の僧であった。いっとはなく姓を小寺と替えてしまった。この他、島のうちにも各地に地蔵仏を作って安置した。これにはいずれも「兵治朗屋」の名が刻まれていた。
その後、兵治朗屋は権勢に任せて、しばしば難破船の財物を奪い取り、これを鳥羽に運んで売却しては漸次盛大になっていた。しかるに、ここに「菅島騒動」というものが起こった。今より数代前のこと、その祖父の兵治郎が何者かに暗殺された。種々探査したがその犯人はわからなかった。そのうちに誰言うことなく、その妻の祖母が召使をそそのかせて犯したものであるとの噂が広まり、その女は召しとられて鳥羽の牢に入れられ、三年にして打首になったという。この事件は当時芝居にも「菅島騒動記」として上演され、なかなかの人気があったという。こんな騒動のため、里中の人々が入り変りたち変わりお上に捕まえられて取り調べを受け、一島内一年間、殆ど食に手がつかない状態であったが、兵治郎屋からはこれらの人々を、全部私費によって生活をさせていた。こんなことが原因となって、小寺家は漸次没落してしまった。
 又、冷泉寺に伝わっている、康永の三島神社の鰐口も、菅左近の招来したものともいわれ、菅島の八幡神社の祭礼のうちにも、平家の供養を意味する行事が多分に含まれているという。
兵治郎の嫁は、現在の安乗町あわ屋の出で、事件当時、長女むめ、二男小三郎、三男定時の三人の子どもがあった。兵治郎屋には三つの蔵があり、二つは食糧を保管し、もう一つの蔵には千両箱、刀剣類が山と積まれ、ビタ銭はこがに何杯ととあったといわれている。嫁は大変な美人であり、横恋慕していた他所者がいたが、その男は恋のうらみを晴らそうと、ひそかに菅島に上陸し、兵治郎屋の嫁を殺害したという。
 定時の叔父は母親に抱かれ、乳を飲んでいたので顔から肩に受けた刀の傷跡は生涯消えなかったという。三人の子どもは事件が片付くまで、母親の実家で暮らした。兵治郎屋は長らく海福寺の世話をしていたので、苗字小寺を与えられた。事件後、兵治郎屋の財産は没収され、後継者の小三郎は二十才になるまで、鳥羽の殿様より生活を保障され、以後菅島の戸長を命じられ、鳥羽で生活し、たまに帰宅する程度であった。また菅島の灯台番として明治二十年ごろまで勤務していた。小三郎の三代目に当る小寺武夫氏は「現在のように、法秩序が維持されていたならば、兵治郎屋も没落せずに済んだものを」と語っている。


はっけ地蔵

菅島の南西に突き出した岬に「はっけの鼻」というのがある。鼻というのは小岬のことである。その位置は安楽島「加布良古岬」に相対しているところである。この地の海礁は、常には禁漁になっていて、一年のうち二、三日だけ口開けをして、里人に漁をさせるだけであるので、鮑がたくさん繁殖していて、解禁の日には、我こそ大漁をえようと皆がその日を待ち構えていたのである。老海女のいうところによれば、この地の海中、やや菅島よりの深いところに、高さ六尺もあろうかと思われる大地蔵石仏が、沖のほうを向いて立っておいでになる。そしてどんな大しけの時でもいちどもたおれたことはない。しかし深いところでもあり、地蔵様のお怒りにふれてもという心配もあって取っ近づこうとするものはないので詳細なことは詳かではない。
 昔、里の海女連中が村の庄屋に相謀って、その地蔵仏を引揚げて、景色のよい崎の岩の上に安置して、厚くお祀りをしてはといった。庄屋は大喜び、数日のうちに引揚げの作業にかかろうと決めたが、その夜庄屋は不思議な夢を見た。それは、大石の地蔵仏が庄屋の庭からのそりのそりとお上がりになり、庄屋をお呼びになり、厳かに仰せられるには、「私はいまだ修行がたりないので、こうして海中に立っている。引揚げてくれる親切は有難いが、しばらく元のままに置いてくだされ」といって、またのそり、のそりと庭の方へお出かけなった。いうまでもなく、庄屋は村民にこの事を話して、引き上げを中止することにした。


弘法大師足跡石

 菅島のうち最高の山頂を「おやま」と称している。これは「大山」の意か「御山」の意であるかは明白でない。この地に弘法大師の足跡石というのがる。それは二回りほどの盤石であり、その上面には足駄の跡が、一足飛びに二ヵ所にあるが、ともに二の字状についている。これは昔弘法大師がこの地に順鍚せられた時に、この山にもお登りになり、この大石の上をお歩きになったときの大師の足跡であるという。
 里人はこの足跡を尊んで、このお山に登ってもこの大石の付近を恐れ、近寄ることはなく、もちろんこの大石をゆり動かしたり、触れることもない。かくすれば仏罰によって頭痛をおこしたり「おこり」病になったりするという。古老の話によると、昔猿の親子がこの付近に遊んでいたが、親猿の制するのを聞かず、子ザルがその大岩の上で遊んでいたがややあって、その子ザルはその石の上に糞をした。ところが忽ちにしてその子ザルは六、七尺跳ね飛ばされてしまったという。また、里人のいうに、この大石の地に近く、中くらいの石を組んで作った洞窟があり、その上に大磐石を以て覆うがところもあり、それより少し下がったところに行者山というところもあり、そこには古い石仏も安置されているという。